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2015年12月27日

笠井叡 × 森山大道 × 太宰治

来春、中国・北京で公演するプレビュー公演が〝天使館〟にて。 事件です。

中国公演に対する叡さんのステートメントを記します。

 写真集『Daido Moriyama: Dazai』を手にしたことでこのダンスが生まれた。
 太宰治の「ヴィヨンの妻」を森山大道さんの写真と一緒に見ると、不思議なことに太宰のまったく別の側面が伺える。それは森山さんの写真に関しても同じだ。例えば、カラスが飛んでいる写真、電信柱に止まっている写真から、森山さんの持っているロマンチズムをイメージすることができる。これまで森山さんの写真には、どちらかというとハードな印象、ある種のリアリズムを感じていたが、「ヴィヨンの妻」とダブらせて見たことで、森山さんの叙情的な側面を発見した。
 しかもそれでなぜダンスをしようと思い立ったかというと、森山さんの写真と太宰の言葉のつなぎの部分に、動きが立ち上がってくるのを感じたからだ。写真と言葉のあいだに流れるものをダンスにするということを初めてやってみようと思った。
 私は以前から作家の身体性というものに非常に興味があり、実は十年ほど前に、太宰の「人間失格」を踊ったことがある。作家の身体性を一番問題にしたのは三島由紀夫だった。意外にもその三島さんの対極で身体性と格闘していたのが太宰である。その格闘がアルコールに向かわせ、逆に文学には明晰さとなって表れた。ダンスというのは音楽と結びつく傾向がある。音楽の中にある作曲家の身体性を感じるからだ。作曲家の身体性はすべて音楽になって表れる。ところが、文学はそうはいかない。文学は自らの身体性との闘いである。言葉のカスが身体なのではなく、身体だけがひどく取り残されてしまうのだ。太宰はアルコールに溺れ、自死した。これは、文学者の、太宰の身体性との格闘を踊る、初の本格的な公演でもある。
 今回『Daido Moriyama: Dazai』によって北京で踊る機会を得た。私にとっては初めての中国公演でもある。
 だが私には、どこで踊るかは重要ではない。ダンスの正念場は舞台に立った瞬間だけ、舞台と観客、それがすべてなのだ。あとは何もいらないし、どうでもいい。

笠井叡

やっぱ、事件です。。。 ご予約はお早めに。

投稿者 町口覚 :18:37

2015年12月05日

Daido Moriyama: Terayama (jp)

僕が大好きなブックショップの「Shelf」さんで〝先行発売中〟です。
あの出来事があった〝PARIS PHOTO 2015〟で大好評だった新刊写真集の〝日本語版〟を是非ご購入下さい。

投稿者 町口覚 :17:10