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2010年09月29日

公開最終審査会

今週の金曜日。
銀座のガーディアン・ガーデンで、公開最終審査会しまっす。
天野祐子さん、いしかわみちこさん、伊藤哲郎くん、神崎雄三くん、金瑞姫さん、山野浩司くんの最終プレゼン。
グランプリは誰の手に?
是非御来場くださ〜い。

投稿者 町口覚 :02:10

2010年09月14日

田村彰英

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今週の金曜日。
御茶ノ水のギャラリーバウハウスで、写真家の田村(元)シゲル(今、彰英)さん(上の写真は雑誌『遊』創刊号の目次。刊行日はピッたり三十九年前)、上野修さん、馬鹿兄弟の四人で話します(たぶん兄弟喧嘩有り)。
『遊』創刊号に、いきなり十二頁をブチ抜いた話はしないにしても、いろいろ話したいことが山沢山。
是非御来場くださ〜い。

下記『遊』創刊号の百三十一頁に掲載されている(俺っちが大好きな)文章。


《遊》刊行前夜

オブジェ・マガジン《遊》は、当初、仮面社において図書誌「仮面」として企画され、その後、仮面社より松岡正剛に単独編集の依頼があって、その名称を《遊》と変え、準備が進められていた。一九七〇年六月のことである。
《遊》は十一月創刊をめざし、その原稿のほぼ全てを入稿、小島武氏のED作業も加って、発刊を待つばかりとなっていたのであったが、一天降雨、仮面社側事情から《遊》のゲラは印刷所の棚にストップされる憂目に逢った。仮面社は《遊》の刊行を断念、自動的に残骸《遊》は松岡および小島氏の手元に託された。
その後の再開には、印刷所側の原稿紛失なども絡み、約四ケ月間を要した。定森義雄・上杉義隆・高橋秀元の三名が加わり、《遊》刊行準備団としての工作舎が生れたのは、やっと四月中旬であった。この過程で工作舎の代表に中上千里夫があたり、一方、小島氏はいったん《遊》を離れることになった。小島氏が《遊》のベーシック・デザインに与えた内容と労苦は甚大であり、ここに誌上を借りて謝意を表しておきたい。
以上の経過は当然ながら多くの人たち、とりわけ執筆者および読者諸兄の方々に大変な寛大と待機を強要することになった。これらの方々の協力がなければ、《遊》は全く生れえなかったといえる。このことは本誌創刊号の誌面にどうしても銘記したかった。
さて、ちょうど一年の雌伏仮死の季を終えて《遊》を難産するにあたって、いったいこれほどのスレスレ状態をもって《遊》を出すのはどういうつもりか、などと問われる日が多くなってきた。が、問われるたびによくよく考えてみたところで、そんな落ち着いた理由があろうはずもなく、ただ少々の力を蓄えつつ、現代史の死角にうずくまる物々と物々に憑れる人々と共に、或る〝兆〟を求めてみるだけのことなのだ。オブジェ・マガジンという一見サラリとした名称も、そんなけしきばみをタイトルふうにまとめてみたにすぎない。〝物冊子〟とでも名付ければ少しは本意に近くもなろうが、本意に達するのも三、四号まではおぼつかない。それまで御愛読を期待する。
以下、一部読者には公表した2号〜6号の企画予定を主項目のみ再録する。
玩具、時間論、地球、折口民俗学、ピアノ論、ウォーホール、宇宙模型、実験医学、武器、細菌学、エルンスト・マッハ、人形、雲、原始美術、イスラム観念、柿本人麻呂、ダヴィンチ、素領域概念、ドス・パソス、化石学、ザ・ビートルズ、日本列島論、国家論、ウパニシャッド、ポオ、鳥類、デュシャン、星、ヒルベルト空間、機械学、バッハ、内乱論、海底地形、韻律論……その他。


ね? ヤバいでしょ。

投稿者 町口覚 :02:15